家に問題を持ち込めない子どもだった話
私は、家の外であった出来事を家に持ち込めない子どもでした。
特に、自分にとってショックな出来事は「言ったら軽蔑されるかも」「こんなこと話したら恥ずかしい」と、家族に打ち明けることができませんでした。
あるとき、母に褒められました。
「お姉ちゃんは、問題を家に持ち込んで家族を巻き込むけど、えりかは外で切り替えて家に持ち込まないもんね!」と…。
そのときは「違うんだけどなぁ…」と思いつつ、母に褒められたことが嬉しかった。だから、深刻な悩みは自分の中に隠していました。
外でとても悲しいことがあった日、家で夕方の教育番組を見ながら「なんでこの人は笑えるんだろう?消えていなくなりたい。」と絶望していたのを今でも覚えています。
腰痛が思い出させてくれた私の問題
なぜ、問題を家に持ち込まない子どもだったことを思い出したかというと、リズ・ブルボーさんの「自分を愛して!」を読んだからです。
この本は、スピリチュアル版の家庭の医学といわれています。ここ数年、就寝時に腰痛があり、調べてみたら「人に頼れない」というワードが気になりました。
巻末のワークをしてみると、幼い頃から両親にも姉弟にも悩みを相談できなかったことを思い出しました。
みんなの負担になりたくない
私は、3人姉弟の真ん中です。姉は、親にも友人にも弱音や悩み事を話すタイプ。弟は、知的障害があって感情の表現が得意ではないので、母がしっかり汲み取ってあげていたように思います。
私は、家族に何か問題があったとき、自分のことのように感じて胸の辺りが締め付けられます。問題を共有することは、家族にも心に負担や迷惑をかけてしまうのだと、悩みを家族に言えなかったのかもしれません。
人の本当の気持ちはわからない
何も言わないから傷付いてない?表情に出てないから感じてない?そんなことはない。でも、家族ですら本当の気持ちってわからないもの。
悲しそうに見えても喜んでいるかもしれないし…考えだしたらきりがない。だから、自分の経験や偏見から人の気持ちを決めつけるしかできない。
人それぞれ感じ方が違うから、恥ずかしくても、伝え方が下手でも自分の感じたことを言葉にしていかないと、相手にはわかってもらえない。
恥を捨てた人は強いというけれど、弱さを認めて周りに伝えられたら、最強ですよね。
でも、みんなが気持ちを言葉にできなくても、それぞれ悲しいことや理不尽な出来事を抱えながら生きているという背景は忘れないようにしたい。大変な中でも、私に笑顔を向けてくれているのだと感謝したいです。
家は安心・安全な場所でありたいと思う
すごくショックな出来事があったとき、家族に話したら否定されそう、悲しませるかもしれないから言わなかった経験はないですか?
もし、家が安心・安全で前向きな場所だったら…あの頃の私はどれだけ救われたのだろう。
かくいう私は、家族に安心安全で前向きな場所を提供できているのでしょうか?
夫に聞いてみたら、私は否定しまくってるそうです…本当に申し訳ない。
夫には、私の習慣になるまで安心安全の姿勢で聞いてほしいと宣言して!と言いました。
言葉にする勇気と、自分とは違う考え方を受け止める柔軟さ。これが家族の一人ひとりに浸透していたら、素敵なチームになれそう。
家族や周りの人、そしてこのブログを読んでくれている皆様にも、安心するな〜と思ってもらえる私でありたい!
染み付いた否定グセはなかなか頑固ですが、林健太郎さんの「否定しない習慣」を読んで生活に取り入れています。
家に問題を持ち込めない子どもだった話まとめ
腰痛から、子供時代まで遡って内省したことで、私が望む家族のあり方も見えてきました。
自分の心が苦しいとき、否定せず笑顔で包み込んで話を聞いてくれる場があったら、とても嬉しいし心強いですよね。
私も誰かの安心安全な人になるために、自分と向き合って、内省し続けます。